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カテゴリ:価値観( 85 )

chance or/and necessity

天高く、地が低く見える秋。

あと10日で10月が終わる。
本当に、レポートづけの日々になっているはずなのに「どうした?私」。

海外からの視察団のアテンドで訪れた関西の研究所。所長が体調不良なため、若い(しかも鈴木杏樹似の美人)研究員の方が対応してくださった。その名刺の名前に、見覚えがあった…うん?…そうだ、文献だ、このかたの名前の、文献を読んだことがある!

帰る準備をしている間、おそるおそる「◎◎先生、私、先生の論文を拝読したことがあると思うのですが、◎◎について書いていらっしゃいませんでしたか?」と質問。やはりそうだった。そしてもっと突っ込んで聴いてみた。

「先生、大変失礼でいらっしゃいますけれど、どちらで研究を?」と伺うと、なんと「京都大学のカールベッカーというんですけれど、ご存じ、で・・」。ハイ欠かさず、もとへ、すかさず「存じ上げるもなにも、先生の著作は全て読ませていただいております!素晴らしい!実は、私、先生の考えに感銘をうけて『日本人らしいグリーフケアとは何か』を考え、論文をまとめているところなんです」と(苦笑)。

なんと京都大学大学院で博士号を取られたのだった。そして、ご自分が書かれた本を下さった!視察団と別れ、自宅への電車の中で読み進んでいくうちに、まさしくこういうことが書きたかったのだよ!という思いにかられ、自分の論文の方向性を確認できた。

研究所の所長さんが体調不良でなければ、こういうことはおこらなかった。本当にすべては「偶然という名の必然」なのだなぁと感じる。

そしてその翌日、大学からレポート評価と講評が返却された。
昨年不合格で越年した科目が合格し、それも講評の中で、現代社会での「生きる意味」の喪失について、よく分析ができていることを評価され、「あなたも、このことに一役買ってください。期待しています」と励まされ、勇気を与えていただいた。これですでに、試験は合格しているので、単位取得が可能となった。良かった。

そして補完授業として取った「インド思想」については、自分自身もかなりはまってしまい、補完ではなくなってしまったが、こちらも大変高評価だった。すでに試験も意外にも高得点だったので、あと1本レポートが合格すれば単位取得が可能だ。

レポートが残っているのはあと1教科のみ。しかも2本書かねばならないのだが、今月中に1本書けば、ギリギリ単位取得には間に合いそうだ。がんばろう。

あの若い研究員のかたは「人間・環境学博士」であった。
ある種、学際的な分野である。多いに触発されたッ!
これがもう少し若い時にあったら…とも思うこともある。
しかし、やはり「天が下には時がある」。
すべては「必然」であり、どのようjに向き合っていくのか、そのことが大事。
by lakeforest | 2012-10-20 08:19 | 価値観

外在化

アチーバー再生機かと思われるぐらい、一つの仕事が終わり、次から次へと新しい課題が生まれ出てくる。溢れるように…orz.

今月からあることをやってみることにした。
とても簡単なことだ。
ひとつは、けじめというか、アクセントをつけてみることにした。

家で仕事のことを考えるのをやめ、通勤途上で参考文献を読むのを一切やめてみた。
つまり、家では家族と自分のことを第一に考え、職場では仕事以外のことを考えない、という(極端にも似た)集中型のライフサイクルである。

平日、朝と夕方は家事中心で、参考文献の読書。たまにレポート。SNSでの発信を控え、アプリに手を出さない。(←これが一番効いた)
休日は、学校とレポートを中心に、家事。

すると視野が開けた。
機械に振り回されていた過去の自分が恥ずかしい。

そしてそれ以外の平日は・・・。
通勤途上での参考文献の読書をやめてみた(こんなに気持ちが楽になるものなんだなぁ)。
四六時中、単位修得のことが頭から離れなかったが、心配することがなくなった。

単純だ。
でも何でこのことに気が付かなかったんだろう。

職場については、諦めというか、これも腹をくくったからかもしれない。
まず、条件が合わなければ、自分から辞める決心がついた。
ある種の見切りをつけた。

すると、違う意味で、また積極的に動けるようになってきた。
働きやすい労働環境に近づけるように、実現できるところから実現化する。

疑問に思い、解決を求めたい事柄については、(同僚に聞くのではなく)直接上司に進言するなり、解答を求めることにした。今日もそうしたけど(苦笑)。変な噂になるのをさけ、自分にとって余計なことを、耳に入れないようにするためだ。

私は、上司の顔色を見たり、自分をよく見せようとして働くのはまっぴらごめん。
不器用だけれど仕方がない。

そして、職場の人間関係については、次のようにした。
職場の人との時間外接触を避けることに決めた。

何か魂胆があるように思われたり、まったく自分はそのようなことをしていないのに濡れ衣を着せられたり、羨ましがられたりしたが、そういうバカバカしいというか、くだらない考えを持つ人間と時間を使うことを辞めた。見方を変えれば、自らその人と関わるというか共有することにもなるのだから、ヒッキーではないが、自分の世界、自分らしさを大事にしたいと心から思った。

職場での「他人のこと」や「うわさ」を耳に入れない、そうすれば気にならない。
今までの笑顔の自分に戻れそうだ。

幼い頃からの母からの言い伝え(苦笑)。
「沈黙は金」「口にチャック」を貫く。
ただ愚直に与えられた任務を果たすことに尽きる。

すると、自分が少し変われた。
変わったような気がする。
いや、変わった。

まぁまだ1週間も経っていないが、このまま後半に向けてしばらく維持したいと思う。

どうなることやら…。
by lakeforest | 2012-09-06 00:43 | 価値観

考えの坩堝

大学院の夏期集中の講義が終了。あとの集中講義は、秋の3連休などを生かしたものだ。レポートがたくさん残っているので、修了に間に合えば良いが・・・。

久々の日記。否定的なことばかり書いている、ポジティブにネガティブマターを発信する!それは単に、怒りのぶちまけじゃないのか?そうとも言えるかもしれないけれど、大事なことだ、と自問自答。


◎シンクタンク
自分の考えを出してくれ、と言われた。
「嫌だ」と正直思った。

組織のより良い活動のために、自分の「考え」や「アイディア」をシェアし、「どう実現していくか」。
私にとっては、その実現過程の中での「それぞれの情報や考えの共有やシェア」というのが、働きの最高の喜びだった。

それなしに「考え」を提供することなどありえない。
だから「嫌だ」と思った。

その共有や分かち合いがなく、権力行使する人間はたくさんいる。
そういう自己実現的に生きている人間にはなりたくないし、そういう人と「考え」の共有などしたくもない。

それに、今の職場でいえば、多くの専門職(に近しい人)がいるのだから、その知恵を十分に出し合えばよいだろうし、私は、専門外の「考え」をシェアするほどの報酬をもらっていない。

だから職場の専門分野以外での発言は、進んで出し惜しむ。限りなく傲慢であるが、専門分野の人はそれなりの報酬をもらっているのだから、当然のことであると思っている。

やすやすと私の大事な、小さな小さな、それでも濃縮されたドロドロで濃~い「考えの坩堝」を開けたくはない。それだけだ。

そのような中でも、その坩堝を開けて一緒に分かち合いたいと思う同僚が一人でもいることはうれしいことでもある。


◎もの申す…
「立場」を考え「役割」をこなす場合、難しいのは、たとえば、ボランティアとともに活動するプロだ。

表面上「同じこと」をしているのに、方やボランティア、一方は有償という顕著な例。

その違いは何だ?

実質的な行為の先に示されたものが違う。
「有償」の対価には、立場上果たさなければならない「義務」があるはずだ。

そこをしっかりとおさえて、仕事をしないと。


◎これから先
おそろしい。
これから、どうなっていくのか…。
万物の事象は、最終的には、神にゆだねる、神のみぞ知る、というところ。

時々引き合いに出される「神」という言葉が、なんとも口当たりの良いというか都合のよいものになっているとき、本当にそれでよいのか?と思ってしまう。

そう考えるこの時にでさえ、その方は、私たちのそばにいて、寄り添っていることを忘れてはならない。だから、大丈夫なのだ、結局のところ。

なるようにしかならない。
自分にとっての最善を尽くしていくこと、このことを着実に誠実に果たすのみなのだろう。

だけど・・・なんでつらい時に読みたくなるのが旧約聖書なんだろう。とくに『ヨブ記』。
by lakeforest | 2012-08-28 06:36 | 価値観

いかりんぐ

いじめ。
どんな世界にもある。
前回書いた同調行動の結果が、それを表している。

痛ましい事件があとを絶たない。
もっとも痛ましいのは、未来を生きる子どもたちの自殺だ。
子どもたちには何の罪もない。

今、いじめられている子どもがいたら、言いたい。
「逃げなさい」ということを。
「そんな学校に行く必要はないんだよ」
「死なないで。死ぬ必要はないんだよ」ということを。
自分が自分を守る手段、力を手にいれるまでは、逃げることも防衛手段なのだから。

いじめられていることを恥ずかしくて言えない。
そう思うかもしれない。
残念ながら、大なり小なり、いじめはどこにでもある。
そのことが恥ずかしい事態だ。
誰にも言えないなら、あったことを全てノートに書き留めておき、それを机の上に置いて、警察、役所、病院、どこでもいい、「助けて」と駆け込むことだ。

子ども相談室に電話をしてみるのもいい。
とにかく「いじめられて悔しい。怖い。悲しい。みじめだ。憎い。助けてほしい。わかってほしい。どうにかしてほしい」そういう気持ちを、わかってもらえるまで発信し続けることだ。
それは決してみっともないことじゃない。
そういう勇気あるあなたを見逃さず、守ってくれる人はきっといる。

気付かない大人が鈍感なだけなんだ。
いじめはどの世界にもあることだから、防衛手段を知っている大人には、あなたのつらさをあなたと同じ様に受け止められないだけなんだ。

勇気を持って、今おこっていることを伝えてほしい。
全力で君を守るよ。
君は1人で生きているんじゃないんだから。
そういう大人は必ずいるから、信じてほしい。

=====
子どもたちがSOSを出しているのにもかかわらず、助けられない教師たち。
いじめと自殺の因果関係を認めない教育委員会、それこそ、やっていることがいじめ集団と同じだ。そんな教育委員会のもとで、いじめがなくなるわけがあるまい。

人間1人が大人になるまで20年。
普通の人は、その半分を学校で過ごす。
教育環境というのは大事だ。

いじめにどう対処したら良いのか、いじめが慢性化しない環境作り、人間関係づくりなど、人を育てるために、真剣に考えたらどうなのか、と思う。大人(教師)の間でも、そういうことが話せない環境や人間関係でいるから、子どもにも向き合えない。

まずは大人が変わるべき。
そして、根本的には職位を持っている大人たちの「対等な人間関係」を作っていくことが必要なんじゃないのか?

まぁ自分の職場にも言えることだから、これは自分へのメッセージにしておく。

=====

原発の再稼働。
経済の問題だというけれど、使用済み核燃料をどうするつもりなのか、それをはっきりと示してもらいたい。

何十万年もの間、放射性廃棄物という危険物質を抱えた地球。地球から人がいなくなる日も想定すべきだ。私たちは、そこまでの責任を背負いながら、原発を稼働すると決断したのだろうか。

人間が、自然の循環を断ち切ることはしてはならない。しまいには、人間がその循環からはじき出されるだけだろう。

まぁ、地球年齢もあるし、人間がどうあがいても、自然の流れに屈することはできないのだろうと思っている。

=====

以上、最近、とくに怒りにも似た感情が湧いたできごと。
by lakeforest | 2012-07-15 15:26 | 価値観

word・・world・・wording

その1  性別役割
「性別役割分業」と書いてしまうと、「性別」「性別役割」「分業」と、まぁ大きく3つの概念が混在しており、様々な角度から考えられる。

「性別」とは、単に生物学上のことを言うのか?まずそこからひっかかる。
「性別役割」とは何か?おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯…これは性別役割なのか?男だから、女だから…男らしさ、女らしさ…それを既定してるものは何か?
「分業」とは何か?分ける必要があるのか?何をどうわける?分けられないものもあるだろう。


その2 翻訳に思う
日本語を英語に訳す場合、概念的、歴史的な背景を考えることは必要だ。言葉は生きている、だから時代、社会によって変化している。

たとえば、心理実験などを行う時に、数年前までは実験台(←分かりやすい言い回し)になる人を「被験者」つまり英語でいうと「subject」と示していたが、最近は「実験参加者」「participant」と示すようになっている。もちろん、これは人権的側面がベースにあり、「実験に参加、協力する」という意思の元で実験台になっている、ことが前提でなければならないからだ。

とくに医療に関する分野などでは、医師が患者より上という立場を崩せないでいる。専門性と人間性は異なる。しかも、それに見合う(またはそれより過分の)診療代を支払っているにも関わらず…権威的牙城は崩せないでいる。

そういうことを、その社会を構成する表現手段の「言葉」で表していくことも大切だ。だから「運動家」は言葉に敏感なのだろう。


その3 アンケート調査
職場で、アンケート調査票が配られた。
アンケートを行う際には、言い回しに注意しないと正確な調査は望めず、ましてや、結果が作為的、恣意的に導かれてしまう可能性がある。

たとえば、
「あなたは一般にコネで就職することに賛成ですか」と問うと、50人中38人が反対。ところが、「あなたはコネがあったら、それを使って就職したいと思いますか」と問うと、50人中40人が賛成となった。

また
「音楽番組がよく放送されますが、あなたはこういった傾向に賛成しますか」という問いに対して、賛成した人は50人中32人。32人中18人が「音楽」とは、オペラやクラシックと考えていた。反対者18人の11人が歌謡曲を想定していた。

という実例がある(『社会心理学研究入門』東京大学出版会*1より)。

職場のアンケートでは、パーソナルとインパーソナルのどちらの答えを求められているのかがわからず、大変に答えずらい。ましてや、質問の意図がみえず、はい、いいえ、では答えられない質問が多すぎる。つまり、受け手の捉え方によって左右する質問が多い。

質問の言い回しの違いによって、回答は微妙に影響を受ける。
そのために、質問の意図を明確にすること、文章を簡潔に表現すること、わかりやすい語句を用いること、誘導的な語句や文章をさけること、が必要とされている。(*1より引用)アンケートによって、意見聴取し、それによって結論を導くものならなおさら、慎重にならざるを得ない。

まぁそもそも、私見では、多数決で決める問題ではないことを多数決で決めようとしているのだから、変な話だと感じている。どう答えたらよいか、迷っている自分がいる。


その4 日本人らしさ―1
「日本人らしさ」とは何か?

海外での話し。
2名の日本人女性が「どちらが『日本人らしい』のか?」という質問をされた。それを、傍で聴いていた男性が間髪いれず(質問されたのは女性であるのにも関わらず)「Aさんは典型的な日本人ではない」と答えてしまった。

私なら、質問した人に「あなたは、どういう人が『日本人らしい』と思っているのか」と聴くであろうと、Aさんに伝えたら、自分もそう聴こうと思っていた、という。

まずは、質問した男性の「日本人らしさ」を聴いてみる必要がある、と感じた次第。


その5 日本人らしさ―2
「日本人らしさ」とは何か?

日本人論「集団主義」について、レポートを書かねばならない。有名なT氏の論文をベースに書かねばならないのだが、私はどちらかというと、それに反対しているK氏の論文の方が共感できるし、意図することが良くわかる。

私見だが、「集団主義」「個人主義」という言葉の定義がし切れていない気がする。基本的に、アメリカは「個人主義」である。しかし「集団」になった時の強さは半端じゃない。その集団には、「個人の尊重」とともに、強い「個人の責任」が優先しする。成人になれば自分以外の人と「対等な個」としての関係を築いていく。また厳しい契約社会である。「契約」した双方の責任(対等な関係)が重いがために、納得した契約に至るまでの交渉力が要求される。

日本人が「集団主義」か、と言ったらそうではないが、「集団」になった時の規範を守っていこうとする力は強い、個人より集団が優先し、異分子を排除する傾向が強い。「個人」というより、「個人」の帰属集団を見たがる社会である。明文化された規範だけではなく、明文化されていない規範を「暗黙の了解」「契約」として受け入れる。そして成人になっても「対等な個」というよりも「上長」「責任者」「在籍年数」などの「立場」を、その集団の中で図る関係性を持つ。自分の立場を優位にする交渉力が通用しない場合が多い。

だから何かが起こったら、責任の所在を明確にし、個に求めることが可能なのは、アメリカである。日本は、責任の所在を個人に求めるというより、集団の規範を治めている「長」に求められ、規範から逸脱した個人は排除されてしまう、もしくは、責任を弱い者に押し付けがちな力の支配が利く環境である。

同調行動というのは、どの集団でも起こる。それは50年くらい前の実験で明らかになっている。ただし、環境が変われば人も変わる。だから、その実験が今も有効かは定かではない。

いずれにしても、それを実証しなければ、プラクティカルな面からの通説でおわるだけである。アカデミックというのが、遅れている所以は、検証に膨大な時間がかかり、終わった頃には環境が変化していることが有り得るからではないか。アカデミックの限界はそこにある、と感じているこの頃。
by lakeforest | 2012-07-08 07:48 | 価値観

Yes, I do. but not YET

先週は体調が絶不調。
かろうじて会議があったので行ったものの、会議の日が最大に不調で、あやうく廊下で嘔吐するところだった…orz.

会議の時も翌日も、昼休みに空いている場所で仮眠。
結構寝られた。2日目などは、45分間、まるまる椅子を二つ並べて寝てしまった。

そのような中、息子が修学旅行へ。
準備はすべて彼自身が行ったので、ただ頼まれた不足の物だけを調達した。出がけに「僕が帰ってくるまでには元気になっていてよ」と。心配かけてしまった。あいにく旅行先の関西は雨模様らしい。それでも、楽しい思い出を作ってきてほしいと願っている。

====
色々と人の悩みを聴くには、エネルギーが必要だ。
自分が、それだけのことを受け入れる器と、良くも悪くも客観視しながらスルーできるだけの余裕がないと難しい。

自分が不調の時に、同じような環境での悩みを聴かざるを得なくなった。
この場合、自分も相手も共通の場での悩みなので、ある種、共感効果があるように思う。そのような中でもエネルギーのある人が、ない人へ、そのエネルギーを分けるような形になるのが望ましい結果なのだろうと思う。

=====
「思いつき(人事)」「同情(的配慮)」。
このところ、子どもたちや友人たちの間で浮上しているキーワードだ。とてもたちの悪い事柄として悩まされている人が多い。

こういうことをされて良いと思っている人はいない。「理由を公言できない(説明できない・納得させられない)人事や配慮」は、回りを混乱させるだけだ。

そしてたいてい、そいういうことをやる人が、回りを混乱させていることに気づいていない。学校や職場の場合は、たいてい「力」の支配によって操作されている場合が多い。これは、ある種ハラスメントである。力のないものに有無を言わせないのだから…。

=====
「モチベーションを下げる行為」に対しては、断固として妥協せずに改善を求めていく、と言ってくれたかたがいた。このところ、私を含めて、私の周りに、モチベーション地を這う状態の者が増殖中。すでに時間を争う危機的状況なので、何とかせねば、と思って下さっているのかもしれない。

私も、会う人、会う人に「元気ないね」とか「具合大丈夫?」とか言われ、「やる気のなさ」というより「やる気が出ない」が前面に出ているのだろうと思う。先日「疲れているみたいだね。1週間ぐらい有休をとって私のところに遊びに来て、のーんびり保養しに来たら?」とおっしゃって下さるかたがいた。マジ、ありがたくて涙が出そうになった。

できるならば、早くリカバーして、断固として改善を求めていく人を微力ながら支えなくては、と思っているが…やはり何もかもしないで1週間ぐらい、生活の場を離れることが必要かもしれない。

とにかく24時間の三分の一は仕事や学校に時間を取られている。ということは、今の人生の三分の一を職場や学校の仲間と過ごしていることになる。だから厄介なんだ。良い環境をつくるのは、私たち全員であるはずなのに、力ある者よ、気づいておくれ、末端の叫びを。あなたの人生だけではない、わたし(たち)も、図らずもあなたと一緒にすごさねばならないんだから。
by lakeforest | 2012-06-17 01:12 | 価値観

心のさけび

先日、職場の長との面談があった。

面談は、事前に渡されていた自己申告用紙に記入して臨むのだが、その「建設的意見、提案」のところに、当初は、職員の賃金格差の是正(正職員、パート、嘱託)、メンタルヘルスに関する一考察などを記入しよう、と思っていたのだが、忙しさにまぎれて、自己申告用紙を記入し始めたのは、面談2時間前。結果的にその欄は空白で出した。

冒頭、自己申告書を読み終えた長が、「日頃の業務で感じることはありますか?」と一言。
するとスラスラ(苦笑)と…
先日発表された我がセクションの人員増員の新規雇用も含めて、毎年のように起こる組織の土台を揺るがすような事柄(予算削減、人件費削減による異動や統廃合、東日本大震災、その後やっと平時で仕事をしようとした矢先の突然の人員増員)に対して、雇用されている私たちは不安とストレスを感じ、安心して仕事ができない。人員計画然り、全てにおいてヴィジョンを持ち、その元で自分の分を果たしたい
…と、口にしてしまった。

長は、我がセクションが前々から色々とやり玉にあがっていたことをあげ、現場の職員にそのような思いをさせてしまったことを詫び、その後、着任後の思いをじっくりと話して下さった。私は途中、職場の環境整備とくにメンタルヘルスについてどのように思っていらっしゃるのかを伺った。まだ未知数の部分も含めて、丁寧に意見を聴かせて下さった。私は、現場をよく見ていらっしゃる&大変正直な方だなという印象を持った。

その後、処遇改善がなされないまま、私の内的モチベーション、何がこれまでの支えになったのか、と質問された。(うーん、あまり考えたことはなかったなぁ…)そして出た言葉…「プライドです」と。自分でも思っていなかった、そんな言葉・・・だからこそ、潜在意識としてあった真実なんだな、きっと。

そして具体的に、自分を振り返るかのように、自分たち(我がセクション)の立ち位置をしっかりと認識し、自分たちならではの働きを通して、支援して下さるかたがたへより豊かに還元できるようにすること、現場(外部)での関わりから得られた人的成長への感謝を述べつつ、どの職にあってもこなせる(勉強させていただくという謙虚な気持ち)という思いを述べた。

そして、色々考えれば、本当に不条理なこと、理不尽なことは山ほどある、でも、そういうことに捉われるのではなく、(そのようなことがなるべく起こらないように)関わりによって変えていこうと思っている…強いていえば、それが内的モチベーションです、と。(まぁ、最後の部分は、今回の人事で一部完全に折れた)

まったく具体性を欠いた人間論的な話しになってしまったなぁ・・・処遇改善どころの問題じゃないや…と思ったところ、長がすかさず「それと同じような話しを、昨日、ある教育者から聴いた」とおっしゃり、その話を笑顔でお話下さった。

結果的に、長と私が半分半分に語り、「分かち合い」のような時を持った感じだった。そして最後に、この職場で必要なことは何か?という路線になり(僭越ながら)「互い(の働き)を認めあうこと」と申し上げ、具体的な改善案を2、3、思いつくままに述べた。

そして最後1分で、具体的な仕事内容を今までつくってきた小冊子等を示して早口で述べた。強調したかったのは(当たり前だが)、たとえば小冊子など、読み手の方々の思いを意識しながら、最善の努力をもって事にあたってきたことだが、それも上手く伝えられたかどうかは未知数だ。

面談終了。
ドアを閉め、エレベーターに乗った直後…
何、良い格好してるんだろ、私。それって管理職が考えることですよね、と言い返せなかった。私の給料、働きに見合ったものにして下さい!って何で言えなかったんだろー…orz
と、いいようもない寂寥感が襲った。

まぁ、私らしいっていえば私らしい。
天が見ていてくれる…。
by lakeforest | 2012-04-06 11:20 | 価値観

Cafe

昨日は1日、T大で行われた演習へ聴講に行ってきた。
学生時代に、1回だけ文化祭を訪れて、構内を案内していただいたことがある。

そうそう、そういえば、大学の秋入学の問題は、システムそのものを変えることになる。単に一大学の問題ではない。その重要性をどう考えているのだろう?また、時期をずらすだけではない。先にシステムありきで、中身が追いついていけるのか?特に前後。

しかし、順位が下がったからなのか、海外受験生や留学の問題なのか、第三国定住の問題に絡めた外国人受け入れなんだか、今も春と秋入学があるのに、よりによって何をそんなにドラスティックに変えようとしているのか?日本の教育そのもの、そして受験のあり方などを先に考えてほしいものだ。大学(受験の内容)が変われば、日本の教育は変わらざるを得ないのは確かかだが、システムの前に内容を是非。

というか、とーーっても大事なことだと思うのだが、静かだナ。

なんてことを考えながら、門をくぐる。
カメラ女子になりたいくらい、魅力的な建造物。
教室は、扇形の階段状大教室。
古めかしい折りたたみ椅子のビロードのような布、緩やかなカーブの机。そして柱。
超レトロ。

ありゃ?
なんと、来年修論の指導教官の教授が(汗)。
ご挨拶をして、立ち話で、テーマへのアプローチについてちょこっと相談。
「とにかく、書くこと。そのうち形になる」(苦笑)と。

講義のキーワードは、臨床、公共哲学、宗教など。
考えさせられたことは「負い目」という感情、「当事者」というのはどこまでを指すのか、「経験したものにしかわからない」という感情と、では、全て経験しなければならないのか?ということ。

また、講義の中で、ドイツの脱原発について触れられた。
安全であるかないかというよりも、「倫理」の問題として、責任や持続可能という面から検討され、何より、「原発の是非をめぐる対立そのものを社会的リスクとして捉えている」という点は、着目せねばならないと感じた。

1日の講義を聴き終え、福島の友人(公務員)と夕食。
久々に会えたが、心身ともに疲労しているようだった。
途切れることない話し。
福島の危機的現状。
まるで「踏み絵」や「Red Scare」の時代のようだ…と。
ますます講義での「社会的リスク」を考えてしまった。

3.11は、(いままで蓋をしていた)日本社会が内包している課題や問題を一気に露呈させた。
私たちはその渦の中にいる。
他人事ではない。
当事者なのだ。
エネルギー政策だけではない。
人間倫理の問題だ。

あぁ、よく心を動かした一日だった。
by lakeforest | 2012-01-29 02:16 | 価値観

grief,かなしみ, continuing bonds…に思ふ

Robert Neimeyer という悲嘆領域での代表的な研究者がいる。
私が取り組んでいる修論に、欠かせない存在でもある。彼は、いわゆる社会構成主義の立場から、、悲嘆領域における実践と、その理論化を進めている。

人は、喪失や死別体験にある時、また予期しない不条理なことが起こった時、「私はどうなるのか」「故人の人生にはどんな意味があったのか」「このようなことに遭遇する、自分とは何なのか」などと魂をゆさぶるような疑問にとらわれることがある。

Neimeyerは、悲嘆の営みをしている人にとって、意味(meaning)の再構成、生成は、自己(の人生)を定義し直し、意味ある人生を見出すための重要な過程であると主張している。「死」が、人生の生きがいを打ち砕く力を持っているが故に、新しい意味を発見し、生きる目標を作り出すことが重要だからである。

かつてフロイトは、喪の営みにおいて、de-cathexsis(デカセクシス) つまり、遺された人の希望や思い出を、故人から切り離す(情緒的断念)ということを心理的課題として挙げていた。しかし、現在の心理学者の多くの理解として、de-cathexsisすることはできないが、continuing bonds(絆を持ち続けること)の方法はある、という認識がある(Klass, Seilverman&Nickman, 1996)。

以前、米国や英国における悲嘆回復において、日本人の思慕や追慕の度合いは、病的悲嘆に匹敵するとみなされることがある、と聞いた。それは、あくまでも、キリスト教の死生観における「死」の捉え方からくるde-cathexsisの概念と、日本文化における「死」の捉え方の違いからくるものであると感じる。悲嘆領域において、個人のアイデンティティ形成の上で、影響の大きいコミュニティや社会の文化的背景を無視することはできない。

我が国において、心理学の領域では、西欧諸国の理論に追随することが多い。特に、戦争によって、危機理論が発展してきた歴史的な背景をみても瞭然であり、数々の研究は、その当事者によるところが大きいからである。

しかし、自然のうちに生きることを尊んできた日本人にとって、みずからの有限さ、無力さを深く感じとる感情である「かなしみ」は、美的理念の一部でもあり、それに深く親和してきたと言える(竹内整一、2007)。だからこそ、悲嘆領域において、その独自性をもって、臨めるのではないかと考えている。

小此木圭吾は「対象喪失は人間の絶対的有限性への直面である」とし、現代人が、高度成長期を経て、悲しみ、不快、汚れや醜さなどを眼前から排除しようとし、対象喪失に対する悲哀そのものを排除し、悲哀が悲哀に出会うことができない仕組みが成立してしまっている「悲哀排除症候群」(1979)社会を指摘した。

その後、30年以上経た現在にも当てはまるように思われる。
誰もが避けては通れない「死」を忌み嫌うのではなく、向き合い、語ることによって、ごく自然な心の流れとして、悲しみを悲しみ、苦痛を苦痛として味わうことのできる社会でありたい。

「死」を見つめることは、生きることを見つめることであり、それは個人の人生観を確かなものにしていくだけではなく、人間観や人間理解を涵養し、人間尊重に基づく社会への構築につながると信じてやまない。

また、いつのまにか、まじめに語ってしまったようだ。今日はこの辺で…感謝。
by lakeforest | 2012-01-09 00:34 | 価値観

つなげる

国連大学で行われた被災者支援シンポジウムなるものに行ってきた。
今通っている院の教授が2日目に基調講演を行うという情報が入ったのがきっかけだった。

案内を見てみると、「被害者学」なる文字が…被害者学…自然災害には限らないということ。考えてみれば、ごく自然なことだ。(まぁ対自然だと、かなうものなしという感があるが、人災など人が絡んでくると、対象がはっきりしてくるので、「怒り」もわくであろうし、その矛先も決まってくるということだ)。

主催は、国連大学サスティナビリティと平和研究所、日米エビデンスに基づく精神保健対応チーム(JEMRI)との共催となっている。

内容は、1日目が広く、今回の震災について、被災者から、復興支援対策チームから、医師からなど、被災地中心の報告、2日目は臨床心理の見地からとなっている。

本日は1日目で、「復興」とは何か?「被災者」とはだれか?「支援」とは?など、再認した形だった。阪神淡路大震災における復興に触れ、被災者とNPO(NGO)などの外部支援者との溝についても詳しく検証された。そして、その支援による弊害が、他の災害支援にどのように生かされていくのかも報告された。

雲仙普賢岳の復興ケース→様々な被災地へ→新潟県山古志村というように、行政レベルではなく、当事者から当事者へと報告されていく。今回の石巻におけるNPOやNGO任せにしない支援活動について情報が入っていたが、多分、そのようなことから来ているのだろうと推測した。

この非常事態で、今まで抱えていた問題、内在していた課題が晒された。
今回の震災で一番感じたことである。

過疎化、孤立、産業や経済の低迷…これらのことは前々から抱えていた地方の課題である。
どのような街にしたいのか…ということは、今まで住んでいた人たちが、どのようなことを残し、継承していきたいのかということを問うことでもある。これらは外部のものが考え、設計していくには無理がある。

先日、釜石の仮設住宅の集会室に、ツリーの形をしたメッセージボードがあった。
今、仮設で不自由なこと、こうしてほしい、こうだったら良いのに・・ということを、付箋に書いて貼っていくものだ。

2、3読んでみると「お風呂の深さが深すぎて、私1人では入れず、困っています」「外に敷いてある砂利が大きすぎて歩けない」「知っている人がいないので不安」など…小さな文字でも正直な気持ちが綴られていた。

いのちをつなぐ支援から生活再建の支援へと徐々に移行している。
今、NPOが行っているボランティアでの作業も、実は地元の雇用創出へと徐々に転換していくことも支援の一つであろうと思う。

しかし、この高齢社会。日本は世界にさきがけて超高齢社会を迎える。
少し、テンポを抑え目にして、ゆっくり、じっくり、ゆったりとしたペースで、関係性をはぐくむ豊かな社会へと変えていきたいものである。

どれ一つをとっても、すべてはつながっているのだ、と改めて思った次第である。
by lakeforest | 2011-09-30 22:11 | 価値観

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