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心の垣根

小さな手
先週末、地方出張だった。駅から20分ぐらい場所を確かめながら歩いただろうか・・・目的地の近くになると、子どもの泣き声が聞こえてきた。かなり大きな泣き声だ。何かあったのだろうか・・・声を辿っていくと、幼稚園の園バスのかげに女の子が座って一人で泣いている。

柵の近くによって声をかけてみたが泣き止まない。ハンカチを差し出したが、いらないと首を横に振り、泣き止まない。あまりに悲しい顔をしているのでいたたまれなくなって、住居不法進入罪覚悟で駐車場を抜け、彼女のそばにたどり着いた。そこは簡易住宅のようだったが、どの部屋も窓が開いているが、誰もいない感じだった。

女の子は小学3,4年生ぐらいだった。私の姿を見て、少しびっくりしたかのように後ずさりしたが、ハンカチで、真っ赤にはれた目をふき、顔を拭いた。背中をさすりながら「何か悲しいことがあったの?泣いているとおばちゃんまで悲しいナ」と手を握って5,6分ぐらい一緒に座っていた。そうやってずっと手を握り締めているうちに、涙は出ずに、小さな泣き声だけになってきた。「よかった。涙がおさまったね。大丈夫?」と聴くと、コクリと頷いた。

10分ぐらいたっただろうか・・・「おばちゃん、お仕事で遠くからこの近くにきたんだぁ。ごめんね、もう行かなくちゃならないんだけれど、大丈夫かなぁ?」と。すると小さな泣き声とともに、またコクリ・・・・「ありがとう。じゃぁ・・・行くね」小さな泣き声はやまなかったけれど、手を振ってくれた。角をまがって違う角度から、振りむくと手を振っている。思いっきり振り返した。

不安に思いながらも、目的地を探しながら歩きだすと、ぐる~っと大きな建物をまがると目的地はそこにあった。そう、つまり目的地は結果的に、その敷地の横だった。

3時間後、会議が終わって、皆でワイワイ話しながら駐車場の方へ進む。ふとその住宅を見上げると4階の窓から、あの女の子がこちらを見ていた。アッあの子だ!目があうと、手を振ってくれた。私も嬉しくなって両手で手を振り、なりふりかまわず「よかったあ・・・笑顔になったんだねー」と大きな声でさけんだ。そばにいた5-6人のかたがびっくりした様子で「ご存知なんですか?」と・・。

聞けば養護施設だとのこと。大声で泣いていることがあるそうだ。「子どもは宝。泣き声を聞くと、抱きしめてあげたいなぁと思うんです。胸が痛みますけど、何もできなくて・・」と。その気持ちもわかる。響き渡る子どもの泣き声は身が引き裂かれる思いだった。

少子化、そして何か分断されている、また連帯感がない。公園での子どもの笑い声も、子どもの泣き声すらもあまり聞こえない。喜怒哀楽を素直に表現できる子どもたちが、のびのびと表現する場も、安心して遊べる場所も限られてきたのかもしれない。自分の子如何に関わらず、抱きしめよう、声をかけようと思っても、大人の衒いとそうさせない環境が生まれてきてしまった。

子どもは素直だ。そして自分をも素直にさせてくれる鏡のような存在だと感じる。あの女の子の小さな手のぬくもりは大事なものを教えてくれた。

居ぬ間に
授業参観や学校公開日というのは「ありのままの姿を見てください」と述べながら、実は子どもも先生方も少し緊張して、整えている面があるのが常だ。

出張から帰宅すると、即座に息子が学校公開日の様子を教えてくれた。ハプニングが起きたという。

まずは目玉授業の「道徳」。これは、あらかじめ、子どもの名前の由来と感想を書く用紙を配布されていたので、その発表かなぁと思っていた。息子曰く、先生が道徳の授業に泣いたという。聴覚障害の親をもつ子どもの作文を読み上げているうちに、涙で声が震えていた・・・と。それがハプニング?先生が泣く姿というのは、子どもにとっては想像がつかなかったのだろう。

そして次に4時間目の「音楽」。授業中、ある男の子が、先生の目をぬって、当日お休みの子どもの席に移動したことから近くの子どもと口論となったらしい。そして公開授業中にもかかわらず、先生は授業を中断し、その口論に関わった子どもたちを教室へ移動したという。

そして、音楽の先生と数名の生徒不在の中で第3のハプニングが起こった。

ざわついている子どもたちに向かって、突然、席を移動した子の親が、音楽室の後ろ(参観している場所)から、数名の子どもたち(愚息含)に向かって「手前らも勉強してなかっただろ!」と怒鳴ったという。

-あくまでも愚息の報告なので脚色もかねて50%ぐらいの信憑性で聞いている私-

すると「僕たちはちゃんと聞いていました」とか「Aくんが先に席を移動したのがいけないんじゃない?」とか「テメエとは言われたくない」とかやり返したらしい。すると「いつもそうやって息子をいじめて!」とお母さんは激しく言い返したという。

そこへ、音楽の先生が戻る。そして完全に後ろ向きの子どもたちと仁王立ちのお母さんのやりとりをみて、あわてて音楽の先生が担任の先生を呼びに・・・。お母さんと話した子ども(愚息含)が、かわるがわる音楽室から教室に呼ばれて事情聴取したという。その後、担任の先生はAくんの親子と別室で話をし、Aくんは残念ながら早退した。

私なりに、2,3年前からの子どもの話を辿ってみると「喧嘩=いじめ、差別」という図式が浮かんできた。Aくんの両親は日本人ではない。もしかしたら、そのことで色々と嫌な目にあったのかもしれない。でも、喧嘩は喧嘩、差別やいじめは別問題だ。喧嘩ができるということは、そういう人間関係が保たれているということであって、喧嘩のあとの仲直り、人間関係の修復まででひとくくりであろう。

前の担任先生は、同じようなことが原因で、その子をとりまく喧嘩や人間関係に神経を尖らせすぎたと感じる。ある種神経を尖らすことは、逆方向に向かうことがあるものだ。心のバリアフリーというのは「特殊」「特別」という感覚を持たないことでもある。それこそ子どもの特権ではないかと感じる。

今回の学校公開日は、先生と子どもたちの等身大の姿が垣間見ることができた。明日からまた、みんなが笑顔で登校できるといい。
by lakeforest | 2008-10-06 06:31 | 価値観

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