都の光の中を・・・

ワタクシが通っていた学校はどこも「連帯責任」ということが重要視されていて、クラスの、または学年の1人の人が規則や規律を守らなかったら、クラスまたは学年全員が責任をとり、償いを課せられた。

たとえば、学校にある自動販売機の飲み物の空き瓶が、指定の場所に戻されていなかった場合は、自動販売機の使用が1週間できなくなる。小学校の時、小学3年で初めて学校の図書館の本を借りることができるのだが、その一年間(3年生だけ)は、期間内返却を怠る人が一人でもいれば、即学年全員図書館の本の貸し出しができなくなるという感じである。

というように、幼い頃から、行動を一定に管理され「自分の行動は常に全員の行動とつながっている」ことを基本とした教育を受けてきた。だからこそなのか、今回の卒倒しそうな事柄(教会が政治的結社から「左」と認定されたような騒動)を聴いたときも、次の時点では「連帯責任」的感覚がぬぐえずついてまわった。

信仰信条でつながっている私たちだが、政治信条でつながっているわけではない。(だが何らかの集合体が団体であるから、今回のように「なぜ宗教団体が政治団体に紛おうものとなったのか」と批判があっても致し方ない)

「正義」という定義は考えさせられる。justice,fairnessやequityはどう違うのか?social justiceというと基本的には左である

古のころから様々な不公平な問題が存在する。その中で、存在否定、人権を脅かすような事柄に直面している人々を救済する存在の一つが宗教であり、教会でいえば福音となる。現在、様々な社会的問題があり、教会がそれを一つひとつ掘り下げて特化して考えていくことは難しい。しかし全てのことは根幹でつながっている。人の人命にかかわることは急務であるが、様々な事象を通して、信仰に基づく価値観を広めていくことが福音宣教ではあるまいか。

この世の中を形成しているのは、私たち自身であることはいうまでもない。だからこそ、どういう世の中でありたいのか、キリスト者であれば派遣された信徒の使命として何ができるのかをともに考え、実践していくことは大事であろう。社会の仕組みを変える立場にいたならそれを実践し、ある者は傷ついている者の話を聞き、ある者は専門的分野で解決するよう努力しとそれぞれの形で、それぞれができることを行う、それでよいのだと思う。

私自身は、十字架に架けられたイエス・キリストの愛を思い、磔刑場に向かう道すがら、ともに十字架を背負ったCyreneのSimon、批難を浴びせられる中をキリストに駆けより汗をぬぐおうとした一人の女性Veronicaの姿が頭によぎる。

もちろん宗教という看板を抱えなくても、反対運動ではなく、平和に向けての実践を行っている人たちが何人もいる。平和に向けての互いの活動を尊重できる世の中でありたい。

「自分たちのやっていることこそが平和への取り組み、活動と思い、それに加わっていない人たちは活動をしていないと考えている」そんな声が聞こえてくる。自分たちがやっていることだけが正しく良いもので、違う取り組みは悖っているという考えそのものに平和はないと思うこの頃である。

今日はこの曲:


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by lakeforest | 2009-10-18 20:42 | 価値観

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