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大切なもの

ある朝、出勤中、職場を辞める場合に備えて、ロッカーの私物は宅急便で自宅へ送る、引き出しの中にある書類はシュレッダー…などと考えていた。

そういうことを考えていると、本当にそういうことを呼ぶものだ。
案の定、決定的に職場から消え去りたいできごとが起きた。
(休み時間)私信メールを数名に送った。
最後の数行はこのとおり:

―略―
私は本当にここに勤務するのがイヤになりました。
ここ(職場)のために働いているのではないから辞めたくないけれど、◎◎ということが残念です。 もう帰りたい。

メールの返信があった。
(一人で悩まないで)一緒にかんがえよう、という姿勢のメールだった。心強い励ましになり、その日は早退もせず、最後まで勤務できた。

帰りのホームで、いつも朝、一緒になる同僚が、ニコニコと笑顔で手を振ってくれた。
しかし、どうしても1人になりたくて、軽く会釈をして、反対方面の電車に乗って帰宅した。電車の中でも、今私が会社を辞めたら、家族にどんな影響を及ぼすだろう…と考えた。デメリットは金銭的なことだけだろうか…などと。

とりあえず、今の仕事が夏には一段落する、その後に辞めよう。私が辞めたところで、一人多く職員が入ったことだし、いくら担当が違うとはいえ、広報的なことに向いているかただから、大丈夫だろう、などと頭に描いた。次の仕事をどうするか、見つかるまでタダではすまされない、などと考えることもなく、ただ「辞めよう。これ以上ここにいたら、私は本当に病気になる。追い込まれるだけだ」と思った。

帰宅してから、「(事情が)許されるなら、会社、辞めたい」と夫に一言残し、「頭が痛いから寝させてくれる?」と、夕飯も作らず、布団をかぶって寝た。

娘が「大丈夫?」とのぞきに来た。
「ごめんね。明日、英語のわからないところ、一緒に勉強しようネ」と言い、爆睡した。

そして翌日、義母から電話が入った。
階段から落ちて、病院におり、動けなくなったので誰か迎えにきてほしい、という。
夫も娘も留守、息子は爆睡中。
私は大学に行かねばならない。(高い授業料を支払ったばかり…でも嫁としては、なりふり構わず病院に行かねばならぬはず…息子がダメなら私が行こう)とかんがえ、息子を叩き起こし、事情を話した。
すると、「僕がいくよ」と、普段からは考えられないくらいの速さで気がえ、すぐに病院にかけつけてくれる、という。頼りがいがある人間になったものだ。
義母に電話をして、私が伺えないことを詫びつつ、息子がかけつけるまで動かないように伝える。
診察をしたら、骨折ではなく、ねんざだったので大丈夫だが、1人では痛くて動けない状態だという。
そして、大学に行く準備をしていると、ほどなく病院の息子から電話があり、これからタクシーで義母を家まで送り、しばらく一緒にいるので「心配しないで、大丈夫だよ」と。
ありがとう、息子よ。

大学に向いながら、携帯で(自分の)母に電話。
「忙しいでしょう。仕事と大学で…身体に気をつけなさいね」と一言。
私の知らないところで、心配してくれている母の、かけがえのない深い愛情が感じられ、自分が忘れていた何かを取り戻した一瞬だった。

すると、昨日、あれほどつらくて辞めたいと思ったことが嘘のように消え去った。
私は職場のために働いているんじゃない。だから、誰が何といおうと、淡々と仕事をしよう。それだけでいい、と素直に思えた。
本当に忙しくて、余裕がなかったのだろう。だから、すでに追い詰められており、正常な考えができなかったのだ、と思う。

人ごとではなく、一緒に考えてくれている職場の同僚と、掛け値なしに私のことを心配してくれている家族、父や母、そういう幸せな環境がある、ということに心から感謝して、今日も、そしてこれからも過ごしていこう…。

そんなことを思った最近のできごとだった。
感謝。
# by lakeforest | 2012-05-26 21:53 | 雑感

俺様目線のたわごと

新人職員が実質入社2週間で、海外視察へ出かけた。

「上から目線」、というか「姉さん目線」、いや「お局目線」でのこの2週間の印象を話してみたい。

彼女は、元職員のマニュアルが簡潔明瞭でポイントが把握できるものであり、仕事の流れ、全体像がつかめたことに感謝していた。そして、スムースに仕事ができる土壌を自分なりに整えていたように思う。パーティションごしに斜め前に座っていた彼女は、2週間目には、もう今までずっとそこで働いていたかのように違和感がない。

視察前の打ち合わせでは「早く前任者のように動けるように追いつきたい」と話していたが、いや、もうすでにあとは彼女なりの持ち味が活かせるように、周りの私たちが協力していくことのみだろう、と勝手に思っていた。

さて、正直言って、ど-んよりと疲弊した私の身体に、清々しく、活力の漲る新鮮な風が入ってきたような気がしている。

オフィス内にも、新しい風が入り、新しい空気や意見などを新人の方々に求める傾向がみられる。
そこで私たちが気をつけなければならないことは「現状に至るまでの経緯」を把握してもらうことだ。つまり、なるべく同じ土壌で話し合えるように、過去の経緯を把握していただき、その上で新しい視点や不足の点を述べてもらうことだと感じる。それがなく、新しい意見を求めても、不毛な時間を割いてしまうことになり、失礼だ。

数年前、職員のほとんどが新しい人に変わった時、私を含め、今までいた同僚との間にギクシャクした雰囲気が生まれた。それは、逆の意味で同じことが起こったからだ。つまり、まるで今までの状態が「悪い」状態かのように、新人の皆さんが「良い方向へ変えていく」という意識でみなぎっていた。元からいる職員にとって、大変に失礼な雰囲気が満載だった。どうして今の状態になったのか、を無視されたこと(聞かれなかった)が最大の屈辱だった。

それから、管理職が変わる時というのは気をつけた方が良い。
「新しくする」「刷新したい」「改善したい」それらの気持ちや意気込みはわかる。
しかし、前任者の功績、今まで働いてきた職員の働きの上に、今があることも忘れてはならない。そこが欠如しているなり、そのような片鱗が見えると、「何様、オレ様」的な、とんでもない傲慢、かつ器の小さい人と思えて、早く異動してくれ…的な考えが部下に生まれること、間違いない。

絵に描いた餅的なたわごとを言わせていただこう。
だいたい頭のよい人は、システムに目をやり、総体的な流れをつかみ、良い点や不具合な点を考えたうえで、改善に着手する。そのためには、大まかな仕事の流れを一巡するまで、大きな変革はしない。限界を見据えたうえで、何か不具合が起きている場合は、その背景また土台であるシステム改革に乗り出す。上手く回っている場合には、一人ひとりの能力とともに人的環境を整え、そのシステムが上手く潤滑できるようにしていくことに配慮する。

組織の土台がしっかりしていないところに、どのように有能な新人が入っても、同じように摩耗し、古くなっていくだけだ。それぞれがそれぞれに高い能力を持って仕事に臨んでいるはずなのに、それが活かされない職場は疲弊、摩耗していくだけだ。よい管理職というのは、だれもが安心、安全に働くことができ、その上でその人がもっている能力を十二分に発揮しても惜しくない、と思える環境作りに励む人だ。宜しく頼みたい。

意気込みだけで空回りすることのないよう、管理職もまた、疲弊、摩耗しないように環境を整えていく必要があるだろう。現代の職場におけるメンタルヘルス、というのは、究極には、移入された資本主義や新自由主義が生んだものだ。

採用前の職場は、はっきりいって「飽和状態」だった。
大切なことは、「成長」戦略から「成熟」度を上げて行くことであろう、と個人的には思っていた。が、今回の人事で成長を求めている感が否めない。この状態で成長を求めては先がないことは明白だ。今の日本と同じような状態であるのに。

こんな状況に至っても、職場の雰囲気にすごい気を使い、私は大変に居心地が悪い。歳だな、適応力は年齢に勝てない、と感じる。とにかく、これ以上考えると、辞めたくないのに辞めざるを得ない状況に自分を追い込んでいる気がするので、この辺にしておく。

まずは自分のメンヘルだ。
何でこんなに働きの偏り、賃金格差があるんだろう。
何でこんな人事になったんだろう。

ちょっと風呂にでも…テルマエロマエを観て、気分を新たにがんばろうっと♪
# by lakeforest | 2012-05-23 05:30 | 雑感

Take a deep breath

いやなことをひきずらない、(夫婦喧嘩も)日をまたがない。
新しい朝は、気持ちよく迎える。
そんな気持ちでやってきた。

しかし今日は一晩中、眠れなかった。
とうとう、この時間になり、いつも起床する時間が過ぎた。
今頃あくびが…。

昨日は人間不信になりかけた。
怒りも湧いてきて、そんな自分にも嫌になった。
いや、もうすでになっており、気にしないように隅に放置しておいた気持ちが、目の前にドーンとシャッターのように降りてきた、と言った方が正しい。

「相性が合わない」というのであれば、つきあわなければいい。
たとえ相性が合わなくても、根源的なところで同じように考えていることがわかれば、「表現の違い」とわりきれるし、それなりに共感できる部分が生まれる。

しかし、根源的な「人間観」の違いからの行動や考えは埋められない。

それが避けられないから悩むのだろうなぁ。
まぁ、悩む時間だけ損だし、同じ土壌に立ちたくない、と考える自分がいる。
結局、そういう時は、自分を信じることに帰結するのだな。

寝てないと、作業効率が悪いし、正直、職場に行きたくない。
でも、山ほど仕事があるし、それをこなさねばならない責任と義務がある。
そういうことに追われずに、ノビノビと仕事がしたいものだ。

そういえば、先日、偶然帰り道、一緒になった新入職員の方が、肩を落としてこう言った。
「この職場は、正職員のことしか考えていないんですね。採用基準だけではなく、アルバイト、パート、嘱託の正職員への登用制度などが組織化されていない。同じ仕事をしていながら、立場によって格差がありすぎ、それを埋めようともしていない。様々な責任の所在が明確ではないのに、ただただヒエラルキーを都合よく利用しているような部分があって、がっかりです。できれば、粘り強く問いかけていきたいなぁと思ったりしていますけれど…」と。

ホントにそうだ。
でも、私は、頷くだけで、何も返す言葉がなかった。
そして、彼女の怒りにも似た力強い正義感を前に、こういう人と同じセクションで仕事ができたら良いのに…と思ってしまった。
こういう人というのは、「弱い立場におかれた人が、不利益を被る非人間的な行為やシステム=「差別」への是正に立ち向かう人」である。

私はもう立ち向かうどころか、立ちあがる気力すらない。

明けない夜はない。

立ちあがり、炊飯器のスイッチをいれよう。

Take a deep breath.
Have a nice day, everyone!
# by lakeforest | 2012-05-16 05:22

going my away

昨晩、私の担当業務の責任者、そしてサブ責任者である大学教授と夕食をともにした。
私は、心調がよくないので、お酒を飲むとあまり宜しくない方向になりそう・・・とお酒を遠慮。お二人は、「(安心して任せてしまっていて…)いつも本当にありがとうございます」と、日ごろの私の仕事ぶりに感謝して下さった。

人はそれだけですくわれるものだ。

大学院に進む時も、お二人は相談に乗って下さった。
そもそものきっかけは、担当分野の充実と専門性を高めたいという思いからだったし、仕事に支障をきたしてはもともこもないので、受験前に相談した。

(今書いていて思ったが、院に行くきっかけは、それだけじゃなかったのではないだろうか…。心の奥底で、自分がやっている「仕事」の価値、いや、「私」の価値を認めてほしかったのかもしれない。つまり、「事務職」の範囲を超えた仕事をしている、なり、「専門性」を持って仕事をしている私、を証明したかったのかもしれない。正当に評価されていない、と感じていたのだろう)

受験後、試験の記述課題を報告した。

(拙夫に「とにかく書け。何でもよいから埋めろ!院では、書くことが主体になる。書けるかどうか、も試されているから」と言われていたので、とにかく書きまくった)

お二人は、合格後、「『大丈夫、得意な分野だな』と思っていました」とか「課題の把握は難しいと感じましたけれど、いつもの通りであればクリアできると思っていました」とコメントを下さった。そして、お二人は、仕事を抱えての院生活は並大抵のことではない、と常に気遣って下さっていた。

(気遣いといえば、よくありがちな行為として、「きっと大変だろう…」というその人の判断や思い込みが、相手の選択肢を狭め、気づいたら疎外感満載の心外な行為に出くわすことがある。当たり前だが「自分中心の勝手な判断や思いこみ」ではなくて、その人がどうしたいのか、どう思っているのか、を言える場を作ること、「どうしたいのか」と尋ねたうえで、その人が判断、選択するなど、相手の行動選択を尊重することが大切)。

だからこそ、この乾杯の言葉に、ジーンときた。

心調が整い始めるだろう、この一言で。

他部署からみたら、私(たち)の今の仕事量は正職員でも多い方だと感じる。
仕事のペースを高めて残業を減らし、効率的に進めてきたが、無理をしないことにした。このままだと発狂しそうだ。(性暴力について翻訳をしている同僚が「発狂しそう…」と、私に相談に来た。業務の内容が内容だけに、私ならわかってもらえる、と。わかる。本当に気が重くなるだろう。)蓋を開けてみれば、職員を1人分増員させられる余裕があったのだから、私も私のペースで仕事をさせてもらうことにする。

アウェー感はぬぐえない。
公平な審判に信頼し、正々堂々と戦おう。
がんばれ、私。
# by lakeforest | 2012-05-12 07:39 | 雑感

心調を整える

この頃、自分の心調が今一つなため、昨日、メンヘル相談に行った。私にとっては、月2回の相談室は、学校の保健室並の癒し力がある。

昨日は、環境変化にともなう気持ちの変化や落ち込みを、自分なりに分析し、改善を阻害してい点も自己評価しながら、思いっきり正直に、今思っていることを吐露してきた。

今のカウンセラーさんにお世話になって、約1年半になるが、主体的な行動変容を促す対応をしてもらっている。最初に訪れたきっかけは、膨大な自殺の調査票を読み、分析している過程で、自分自身の心調を整えることが必要と感じたからだ。私にとっては、大変信用のおけるカウンセラーである。

産業カウンセラーとして職場にいらしているが、臨床心理士資格をお持ちの実践家である。大変、有能で、平たくいえば(失礼を承知のうえで)「使える臨床心理士」だ。彼女のポケットの中には、多くのスキルがつまっており、人の状態、時、場合によって使い分けているなぁと感心している。まぁとにかく、私とは相性があう。(←私だけが思っているのだろうが…)

そんな中で、カウンセラーの技術を客観視しながらも、院に通い始めて様々な理論を習得するうちに、モヤモヤしていた感覚がスッキリした点がある。

以前から、職場で「社会福祉」と「援助活動」の分野に分けられ、その間に壁があることに疑問を感じていた。私の中では基本的には、概念的なものはまったく同じで、土壌が異なることと、間接援助か直接援助かの違い、だと認識していたが、職場の雰囲気は、「援助活動」は直接援助に関わる専門領域、という感が否めなかった。

3年前ぐらいだろうか、人間開発学を学んだ援助分野の同僚からは「福祉」とは異なる、と指摘されたが、その時私は「局面は異なっても、同じこと」と、感覚的に捉えており、それに反論するだけの力や知識がなかった。

しかし、選んだ院が良かったのだろうと思う、つまり「人間(科)学」という領域を選択したため、様々な分野を横断的に学ぶことができ、ますます確信をもって「同じこと」と言えるようになった。そして先月、その同僚が辞める際に、何が同じで何が違うか、を少しだけ語ることができた。

ソーシャルワーク論は、イギリスで萌芽し、アメリカでの貧困問題を基礎に体系化されている。援助技術は、心理学をベースに、医学モデルと生活モデルを融合させながら体系化されてきた。日本の社会構造、文化的背景などから、模索されながらも、結果的にそれぞれの専門分野との連携が必須になってきているように思う。

大雑把にさらったが、一つだけ思っていることがある。
「国内援助」のアセスメントをきちんと行えるように整えた方が良いと感じる。分野をまたいで横断的な視野で評価できるようにするために基盤を整えていくことが求められている、と感じてならない。

遅刻しちゃう。では皆様良い一日を。
# by lakeforest | 2012-05-11 07:30 | 雑感

日々のできごとを、訪れた方々と分かち合えたら・・。( 本ブログの文章、データ等の無断転載、使用はおやめください。)


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