*感触
常用しているノートPCが壊れてしまった。
仕事から帰宅して、さてレポートに取り掛からねば…と思っていたところ。
何度パスワードを入れても、はじかれてしまった。
ゆっくり入れなおす、CAPS LOCK?おかしい。
隠れ文字ではわからない。
見える状態にして、押してみる。
あらら、一文字抜けている。
ゆっくり押してみる、おかしい。
何度おしても、一文字反応していないことが判明。
だめだ、無反応。
ネットで修理の見積もりを開いてみる。
新しく購入しても1万ちょっとしか変わらない。
というわけで、今日から新しいPCを使用している。
でもとても打ちにくい。
キーボードの形や、深さ、キータッチ感が全く違うためであろう。
感触って大事だなぁと思った次第。
歳をとると、新しいものになれるのには時間がかかるんだな。詰まりきった中身をいったん外に出して入れ替えるのに時間がかかるということだ。
*ところかわれば
転職して、同じような職位というか、役職についたとする。
でも、それはその組織によって、微妙に異なるし、表記の内容も全く異なる場合がある。
このところ「それは通常、その人(自分)の役割や仕事ではない。本来は…」という発言を耳にする機会があった。仮に、それがその人の前の職場でのその役職名での仕事であり、それが理想であったとしても、今の職場においては異なり、理想に近づけられない無理な環境もありえる。
新しい部署、環境に来たならば、まずは流れを見極めてそれに従って仕事をし、業務上不都合な点があったら、改善点として投げかけてみてはどうかと思う。
「前の職場では」という言葉は慎重に発言したほうが良い。
違いを認めたうえで、今の職場に活かすなり、こういう場合にはどうしたらよいか、というスタンスでの発言ならウェルカムだが・・・・誤解を生みやすい。
言語は考えの表現であるから、無意識な発言などはない。このまま不平や不満、違和感を感じながら、自分流に仕事をしていたら、チームワークはとれなくなってしまう。そして「やりたい仕事(だけ)をやりたい」という態度や発言につながるような場面を見聞きするのは、苦しいと感じている。
*看板の中身
役職つながりで。
私が長い間働いていた外資機関での私の役職は「Administrative Assistant」であったが、そのまたアシスタントが一人ついていた。通常AAというのは、日本でいうと、中小企業の一般職員に毛のはえたようなイメージだが、特定プロジェクトの部署だったので、どちらかというと、プロジェクトマネージャーに近く、研究者がたてたプロジェクトの予算管理、視察報告のチェックと作成などが主な仕事だった。逆に、スケジュール管理などは個々に行い、AAの仕事ではなかった。
この役職は、今の職場でいうなら「事務長」の仕事だ。
US労働省の、この役職での平均給与を調べてみたら、年俸$34,660、時給で$16.6となっていたが、私は当時、(年俸交渉して)約2倍の給料をもらっていた。だから、役職名など外向けの看板なのだと思う。
今はどうだ…?
役職はない(笑)。
仕事内容はアシスタントどころか、プロジェクトにかかわっているのに、時給にしてもこんなにもらえていない。人生で過去最悪の薄給だ。回りに目をやるならば、本当に同じような仕事をしているのに、職員間の「格差」をひしひしと感じている。給料でいうなら、私は一番下っ端だな!(←胸を張って言える)それでも今までは、仕事内容に誇りをもっていたし、同僚の心配りによって励まされてここまできた。
正直「辞めたいなあ」と思うこともある。かといって、この年齢で、今のように自分の能力を思う存分発揮できる仕事につけるとは限らない。まぁいやな仕事も含めてだけれど…。
だからこそ思う。自分の職位に胡坐をかいている人をみると「きちんと仕事をしろ」と。さもなくば、職位剥奪、降格、一から仕事をしてみんしゃい!と。
障害、病気と同じように、役職が「本来の自分」を表すものじゃない。自分の役職や立場で、自分より下位の者と上位の者を判断し、それによって態度を変える人間を見ると、悲しくなる。役職をとった自分に何が残るか・・・・ということだ。
*長崎
娘が長崎の研修旅行(現地学習メインの修学旅行)から帰宅。
雨が心配だったが、不思議なことに、1日目のミサの間に大降りで、全日程傘なしで過ごせたそうだ。
帰宅直後「どうだった?」と聞くと「もう、長崎の人すごーく優しくていい人ばかりで、長崎最高ーーー!!!大っ好き」と、景色よりなにより、どこかしこで長崎の方の温かさに触れて、癒されたようだった。
路面電車のハプニング。500円硬貨しかなかった同級生に「私が入れておきます」と、その子に代わって100円を入れてくださり、借りた同級生はアッという間の出来事で、返すに返せず、そのままおろおろしていると、その方が下車。
ほかの同級生がそれに気づき、あわてて別のリレー選手の同級生が信号待ちで下車して、走っておいかけ、お金をお返しし、走り出した路面電車を追いかけ、おいついて乗ったという。本来はこういうことは絶対にしてはいけないのだが、運転手さんも笑って再び載せてくれたという。
初日、浦上天主堂でのミサの先唱係で、本人は風邪の鼻声で緊張していたが、大役を終えホッとしたと同時に、係の準備で、ゆっくりと天主堂内部を見られて感動していた。長崎カトリックセンターで被爆者のかたのお話を聞く時間では、皆すすり泣き以上で、お礼を言う委員の感謝の言葉でもしゃくりあげてしまったらしい。
毎年のように関わっている先生方が「あなたたち、そんなに泣くなんて。こんな学年は初めてです!」と。「きちんとしなさい」という思いと「あらあら」という思いだったようだ。
外海の遠藤周作記念館(発つ前日に、遠藤周作のいとこである著名なシスターが帰天なさったのも奇遇。記念館の入り口右の大きなパネルに幼少のころの周作さんと一緒に写っている)、黒崎教会、ドロ記念館などを回り、長崎市内へ戻って班行動。
400枚ほど撮った写真をみたが、めちゃくちゃ楽しそうだった。
平戸と天草のコースに分かれる日があるが、私が修学旅行の時に「平戸」まで行けなかった、と悔いていたこともあり、三分の一が平戸、それ以外は天草だったが、彼女は平戸のコースにエントリー。
最初は、フェリーに乗れない、とか、大きな見学施設がない、とぶつくさ言っていた娘に「天草は、観光地化しているし一人で行けるが、平戸は、行こうと思っても行けるところじゃないから」と言った。夫には「そういう理由は子どもには通用しないよ」と。娘も「みんな天草で、フェリーに乗るとかいって、盛り上がってるし・・」と不満げだった。
が、平戸の教会建築、かくれキリシタンの話、資料館など、とても充実していて、そこでも長崎のみなさんのガイドや説明など、人の温かさに触れることができたようで、「ママ、平戸で正解だった。本当によかったよ」と笑顔だった。正解が何なのか私にはわからないが、うれしかった。
昨年ぐらいから、妙に教会活動に目覚め、学校帰りにも教会の中高生部屋に寄って帰宅することがある。「どうして洗礼を受けさせたのか」と教会へ行くのが苦痛だったこともあったようだが、中学生になったころから、毎年夏の合宿をきっかけに、教会へ行くようになった。
今年の合宿も山中湖だが、なによりも楽しみにしているようだ。
それがたとえ、友だち関係や遊び、ふれあいを基盤にしたものであっても、大きな恵みであると思っている。今は彼女にとって大事な居場所となった教会に、長崎土産(物産だけではなく、信仰話など)を持って、また一回り大きな愛を感じて成長してほしいと願っている。